DANA2222のブログ

社会システムとスピリチュアリティ、主体、フェミニズム等等、思ったこと、感じた事、経験したことを徒然綴っています。

スピリチュアリティとフェミニズム

ここ数日はとても空気が澄んでいる感覚がある。外気を吸い込むと身体がすっきりする感じ、そして何といっても、心の中の波が穏やかで、「自分」という輪郭がくっきりと認識できる感じ。ここまで安定した感覚は数か月ぶりのような気がする。自然のエネルギーに関しても、人々の感情のエネルギーに関しても、本当に怒涛の2018年だったので。皆様もようやく「一息付けた」「リフレッシュした」という感覚になっているのではないかな。

 

さてさて、そんな中でこの一年ずーっと考え続けていた、スピリチュアリティフェミニズムとの関係について、雑駁だけれども綴っていこうと思う。あくまでも私の頭の整理のために。とはいえ、これが同じような問題意識やアイデンティティの揺らぎを感じている誰かの目に留まればとも願っている。いつか、そうした人たちと出会いたいし、考えや感覚をシェアしたい。

 

約7年前にフェミニズムを基に社会の性差別に問題関心を持って以降、犬も歩けば棒にあたるの如し、社会が呼吸するように性差別を当たり前の状況としていることに、私は精神的にもひどく消耗していた。それは特に反原発の運動や女性差別を除く反差別運動、反貧困運動等に関わる中で顕著になった。社会から抑圧や暴力、自然破壊をなくし、誰もが平等に尊厳を持って生活できる社会を希求するという理念の反面、そうした目的を持つ運動体内ですら、性差別がはびこっていることに大きなショックを受けた。そんな中、反原発運動の中で知り合った少しスピリチュアルな人たちとのやり取りの中で、スピリチュアルなものに対する嫌悪が強くなっていった。

 

当時私が出会ったスピリチュアルな人たちの中には、ナショナリズム愛国心を強く持っている人たちが一定数存在した。彼らは日本という国を「愛する」ということを基に、原発に反対していたが、それが多様なナショナリティやバックボーン、思想を持つ人々の集まりでの日の丸の掲揚、君が代を流すことに繋がっていた。また、彼らは女性性や男性性という性に関する本質主義的認識を共有していたように思うし、故に性別役割分業に何ら疑問も持っていないように感じられた。彼らにとっては、「男」/「女」という分離は「自然」なものであり、またその性別を構成する「本質」(とされるもの)も「自然」であったのだろう。ラディカル・フェミニズムの思想探求と実践真っただ中だった当時の私は、そうした「自然」とされるものが社会的に学習・構築され、現在の性差別の再生産装置となっている状況に非常に怒っていた。故に、彼らのスピリチュアリティを嫌悪していた。

 

私がスピリチュアルを嫌っていた理由のもう一点、それは、当時私が出会ったスピリチュアルな人たちが障害者差別や優生思想に無頓着で、それどころか優生思想に則り、反原発の文脈で「私たちは『良い子』を産みたい」等と主張していたことにある。周知のとおり、この社会には優生思想が厳然と存在し続けている。それは「生きていて良い命」と「生きていてはいけない命」を切り分ける思想である。つい先日も、杉田水脈議員によるLGBTに対する、「生産性」に基づく差別があったし、相模原障害者大量殺傷事件も記憶に新しい。「良い子を産みたい」と主張する彼らの無意識下に、そうした命の序列化を肯定する発想があることが許せなかった。この認識は今でも変わらないし、私にとっては絶対に譲れない一線である。

 

私がスピリチュアリティを嫌っていた理由の三点目に、「穢れ」概念との関係がある。それは、出産をし、月経のある女性を「穢れ」た存在であるとして社会的劣位を肯定し、また古くはト殺や皮革業、芸能等に携わってきた人々を「穢れ」た存在として差別してきた(部落差別がまさにそれである)。しかしそうした観念を有する人々でさえ、当の女性の当のお産から生まれ、日々命を頂きながら生活している。お産や他のものたちの命に依存して生活しながら、それ自身を劣ったものとする発想は、なんと悲劇的なものか。

 

ただし今となっては、こうした私がスピリチュアルな人々に対し嫌悪を抱く理由のそれぞれが、本当に、「スピリチュアリティなもの」に固有な性質であるのかどうかはわからなくなっている。というよりもむしろ、後述のようにスピリチュアリティの理解によっては、こうした「男」/「女」のあるべき姿を押し付ける抑圧や、命の価値づけを克服することが可能なのではないか、とも考えられる。

当時の私は、スピリチュアリティに向き合い、その本質を理解しようとするよりも、私の出会った「スピリチュアルな人々」にからスピリチュアリティへの「偏見」を作ってしまっていたのかもしれない。少なくとも、今現在における私のスピリチュアリティの理解は、上のような抑圧を肯定するものではないのだ。

 

しかしながら、歴史的には、宗教の名の下に女性の「性」に対する能動性がはく奪され、レイプから殺人まで、凄惨な暴力が正当化されてきた事実がある(このあたりの宗教と女性の抑圧に関する歴史的事実については、大越愛子『女性と宗教』が詳しい)。男性による女性への恐怖の裏返しとして生み出された聖母マリア像に対し、男性を堕落させ、その罪を原罪化された、悪魔としてのイブという性に対する二重基準は、いま現在も「淑女」と「娼婦」という女性に押し付けられたスティグマへと継承されている。

 

私も宗教教義における女性の抑圧に関しては、知識として持っていたし、宗教がその解釈と実践にあたり、ジェンダーという既存の社会規範を時に利用し、時に巻き込まれながら普及していく中で、性差別色の濃い宗教的現実が生じていることを嘆いていた。ただし、70~80年代以降、主としてキリスト教フェミニストによる再解釈の動きが盛んになった。その中で、フェミニスト神学という、聖書というテキストの女性による再解釈が、女性自身を主体としてなされてきている。スピリチュアリティとの関係でいえば、ここでの一つのメルクマールは、伝統的(あるいは主流のと言い換えられる)な宗教が、信者集団から成る性質を有し、また強弱こそあれど、一定の教義の順守をその信者に要するということが言える。一方ニュー・エイジを発祥とするスピリチュアリティは、個々人と神・宇宙との関係性にフォーカスがあてられるのであり、一般的には教義というものもない。あくまでも、個人による「自由」が前提である。

この意味では、現在私自身も実践しているスピリチュアリティは、伝統的な宗教による女性抑圧とは袂を分かつようにも思われる。だが、これはあくまでも、私がコミットしているスピリチュアリティに言えることなのかもしれないし、それ以外の実践については断言できない。その他のスピリチュアリティの実践については、それを社会規範や既存の抑圧との関係でどう解釈し、コミットするのかはその当人の「自由」であるためだ。

 

思うに、私にとってのスピリチュアリティとは、「今ここにある」私そのものをありのまま、何ら条件付けずに肯定するという作業なのである。それは、人生における数々の失敗と思えることすらも、否定も肯定もせず、ただ見守ってくれている「存在」の「愛」を感じ、この人生を謳歌するということである。私は日々、「学び」をしている。その学びの旅の中では、ただ、「生きている」というだけで尊いということが導き出される。

 

そこに命の優劣の価値評価はない。

 

また、「女だからこうすべき」等といった社会規範もない。

 

ただ、「自由」に感じ、行為し、そこから学びを受け取るだけなのだ。

 

そのことをハートから肯定できるようになること、それが現在進行形の私の「学び」であるとも思う。

 

そして何よりも、私が出会ったヒーリングスペースは、とても居心地がいい。

ヒーラーの彼女は、何も押し付けてこない。何よりもそこが「楽」だ。彼女は私がメンタル的にも辛い状況を相談すると、エネルギー的な観点からアドバイスをくれるが、少なくとも「女」を理由として何かを押し付けられたことはなにもない。価値中立的な姿勢だと感じられる。

 

これまでの私の認識していたスピリチュアリティと、いま私が感じているスピリチュアリティとの間には大きな差があった。

私にとってスピリチュアリティとは、何かに縛られ、「自由」を失うことから解放されるためのツールなのかもしれない。それはハートが喜ぶことに従い、自分の中に湧きあがるどんな感情もジャッジ(この概念についてはいろいろと思うところがあるので、また記事を書こうと思う)せず、ただ受け止め、あることを認めていくこと。加えて、自他の感情エネルギー等に関する境界性が薄い私にとっては、スピリチュアルな実践自体が、その境界線を強くするための実践でもある。

 

こうしてみると、スピリチュアリティフェミニズムは両立可能なようにも思える。むろん、フェミニズムと一口に言っても多種多様な理論があるため、特に科学主義的フェミニズム等とスピリチュアリティは折り合いが合わない可能性もある。

 

ただ、これまでの私の理解してきたフェミニズムは、「こうあるべき」という社会からの押し付けに対し抵抗するツールであった。そう考えると、スピリチュアリティフェミニズムは何ら矛盾・抵触するものではないのかもしれない。

 

これからも実践と考察が続きそうだ。

 

 

 補論:当然ながら信仰を有するフェミニストは数多く存在する。私の友人にもクリスチャンのフェミニスト国家主義や排外主義を乗り越える実践を行うフェミニストが幾人もいる。世界的を見ればこのことはもっと当然のようにも見える。クリスチャンのフェミニストのみならず、ムスリムフェミニストたちが夫々の国で性差別に対する運動を展開しているのだ。このことから、当然宗教あるいはスピリチュアリティフェミニズムは矛盾しないことがプラグマティックに言えるのかもしれないが、だが少なくとも7年前から去年に至る私の認識では、素直にそう思うことができなかった。ひょっとすると、この事実が表すことは、かつての私の宗教的なもの、スピリチュアルなものに対する忌避感情、偏見の存在なのかもしれない。