「依存」とは??
今日は、ここ一年程考えてきた、スピリチュアルと依存の関係について書こうと思う。
「『依存』はいけないことだ」という観念。これを持っている人は、結構多いと思う。
心理学でいうところの「アディクション」が、その元になっているのかもしれない。
「アディクション」と言われる時、たいてい、薬物依存、恋愛依存、クレプトマニア、摂食障害、自傷、カルト等々にまずフォーカスがあたるからかもしれない(それらの「症状」は、その時々の苦しさからなんとか必死に逃れようとした結果なので、それらを「いけないこと」として断罪することは誰にもできないと思っている)。
だが、「依存」にはもっと広いフェーズがあると思っている。
何かに「頼る」ことを含むというような。
私たちは、みな何かに頼りながら生きている。
病気になれば、私たちは医者というメディカルな専門家に治療を頼む。
パソコンが故障すれば、専門の技術者に修理をお願いする。
さらには、食べる物についても、多くの生産者に頼っている。
なんでも、その道の「専門家」がいる。
個々人が全ての専門的技術を習得することは不可能だ。
私たち人間が社会に生きるということは、それぞれが得意な分野の知識や技術を習得し、あるいは先天的に持っている資質を活用し、それぞれに分業することで、助け合っていくということなのだと思う。
一人でその全部を担う必要はないのだ。
それは、ヒーリングも然りなのだと思う。
自己ヒーリングである程度はエネルギーを整えることはできても、やはり自分の手に負えない「状態」がやってくることはある。
日々生活習慣に気を付けていても病気になることがあるように。
そんな時、信頼の置けるヒーラーさんに「お願い」することは、癌になれば外科手術を医者にお願いするのと同じく、なんら不自然な事ではないのだと思う。
なぜか、ここ2年間、私はこれらを全て「自分」でするべきだという感覚に陥っていた。
それは心のどこかで「依存」がいけないことだという自分への縛りをかけ続けていたからかもしれない。
だけど、一日の「時間」が限られる中、できないこと、自分で習得するにはあまりにも時間がかかることに関しては、誰かに頼ってもいいはずだ。
依存という大きなフェーズのグラデーションの中で、それが、「それなしでは生きてはいけない」という強迫観念に傾く時、本人はしんどくなるだろう。
だけど、そういった経緯も経て、自分の力を思い出す瞬間があるかもしれない。
「頼る」状態と、「それなしでは生きていけない状態」はきっと地続きで、人はこの間を揺れ動きながら、バランスをとる方法を学ぶのかもしれない。
なんでもかんでも「依存」だと言って悪者扱いすることはできないんだと思う。
少なくとも私は、何でも自分で処理しようとするよりも、思い切って、「頼る」勇気を出した方が楽になれた。
その分、私の得意分野で力になれることで、人から頼まれたときは、喜んで力を貸す。
人が一人で完全なのであれば、そもそも社会は必要ないもんね。