「自分探し」を卒業しよう
「自分探し」、「本当の自分」、「ありのまま」etc. はたまた「自己肯定感」。
スピリチュアルや自己啓発系でよく目にするこれらのキーターム。
一見、さもありなんな概念に思えるけれど、それらが語られる文脈は、ことごとく「自分の内側」である。他者承認はあまりにも環境要因に左右される、つまりそれに委ねることがあまりにも不安定だから、自己承認を追求する方法へシフトチェンジするはいいが、手に取った自己啓発メソッドでは結局うまくいかず、うまくいかない自分をまた責める。そんな悪循環って、結構あると思う。
メソッドを見つけた瞬間はアドレナリンが出て、これで「楽になれるかもしれない」というプチハイによって、一瞬は憂鬱が晴れる気がする。しかしそれも時間が経つと元に戻る。
これこそが、「罠」なんだと考えている。
一時の高揚感をサプリメントにして、また次の高揚感に飛びついてしまう。
結局「自分探し」はどこまで行っても終わらず、延々と自分の「小さな城」の中からは出られない。
だが少し視点をずらしてみると、そもそも、自分というのは社会とのかかわりの中で浮かび上がってくる存在なのだと気づく。確かに、この社会で自己肯定感を得ることは難しい。だからこそ、一旦それを諦めてみてはどうか。
自己肯定感や本当の自分にこだわるあまり、社会と自己との関係が弱まり、自己啓発メソッドを信じているごくごく狭いコミュニティに閉じこもって、自分のしっぽを延々負いかける犬のようにくるくるまわるのではなく。
自己啓発等とは関係のない人たちと深い会話をしてみてはどうか。
スピ系youtuberの動画をむさぼる前に、ギデンズ等の社会学に関する本を読んでみてはどうか。新書でもいいと思う。
少し前に、自己啓発と社会構造の関係について調べていた際、ついぽちっとしてしまった『自己啓発をやめて哲学をはじめよう』
自己啓発の欺瞞をきわめて合理的に解説していく本書の内容には、思わずひざを打った。そして、ここでの内容は自己啓発に限らず、自己啓発のスピ的焼き直しでしかないメソッド、つまり、大多数の(巷の)スピリチュアルにも大いに当てはまるものばかり。
例えば、本書は自己啓発が、特に貧困層をターゲットにした貧困ビジネスである点、そ
してその仕掛人自身もまた、不安定な状況にあることを鋭く指摘している。
「溺れる人に藁を売るその人もまた、溺れているのです。自己啓発を仕掛ける人々は、そうして自己啓発による儲けによって資産形成を進め、自分のための救命ボートを確保しようとしています」
そしてこの、自己啓発のマーケットを支えるのは、「不安(Fear)」「不確かさ(Uncertainly)」「疑念(Doubt)」の頭文字を取った「FUD」というマーケティングの手法だという。
誰もが持っている「欲求」、それこそが環境に左右されることはよく知られているが、本書では、だからこそ、その環境を「欲求」とは異なる形で構築する方法が提唱されている。これは己啓発やスピリチュアル界隈で目指される「望みをかなえる」方法とは真逆の態度だ。
「自分という存在の豊かさ」は、自分探しの中ではなく、他者、社会との関わりの中で構築していくものなんだろう。孤独感、漠然とした不安感を抱えながら、他者、社会との関りを諦めない(そもそも社会との関りは嫌でも切れないのだが)ことが肝要だろう。そこを無視して、心底信じられないメソッドにすがっていくこと、これこそ、自分への裏切り行為であり、自分を信頼する感覚を損なう自傷行為に見えて仕方ない。
得体のしれない「リーダー」の作り出したイデオロギー、権威をまずは疑ってみる。本を読む。他者と語る。
自己肯定感へのこだわりを一旦脇に置いてみる。
もちろん、自己肯定感は一定社会を大枠で把握するための、社会学的な視点を獲得する有効なツールではある。
だが、マスな視点を離れて、極めてノマド的に、がむしゃらに自己肯定感をあげようと自分探しの迷路に迷い混むくらいなら、いっそのこと諦めた方がよっぽど健康的だ。
そろそろ「外の世界」に目を向けてみよう。