スピリチュアルな世界でいうところの「ジャッジメント(judgment)」について思うこと(前編)
必要に駆られて、ほぼ仕方なく(半ば強制的に)スピリチュアルの世界、目に見えないエネルギーの世界に入っていったわけだけど、そこで出会った「価値観」の中でずーーーーーっと引っかかっていた、そして約2年間その意味を考え続けていた言葉、それが「ジャッジメント」。
この世界を生きやすくするための思考・マインドの在り方について、ジャッジメントを手放す、とか、ジャッジメントをしない、とかいうアドバイスを本当によく聞いた。
だけど、肝心のジャッジメントがどういう意味なのか、本当にわからなくて困惑し続けていた。
ちなみに、ジャッジメントの日本語としては次のような意味がある。
1.判断・判断力・意見・分別
2.判決・審判・裁判
このジャッジメントの意味を、1のように、ただ単に「判断」や「意見」と解すると、これまたやっかいなことに社会生活が送れなくなる。
何故なら、当該ながら私たちは日々、食べるもの、着るもの、生活するところ、会う人を選ぶために「判断」しているから。
「選ぶ」という行為の前提には、何かしらの判断基準をもって「判断」する行為が存在している。これがなければ、私たちは「今日の献立なににしよう」とか、「今日はどんな服をきていこうか」とか「判断」せず、ただ本能のままに(笑)過ごしていくことになる。もちろん、そういう中には本当にそういう生活をしている人もいるのかもしれないけど、少なくともこの現代の文明社会では見つける方が難しいだろう。
加えて、社会をよくしていくためには、政治について考えることは欠かせない。
スピリチュアリティを追求する人の中には政治を忌避する方が一定数いるのだけれど、私自身は、政治と日常が密接に繋がっており、思考・マインド・集合意識が良くも悪くも相互連関している、そうした社会システムがあると考えているので、政治についてもしっかりとできる範囲でコミットしていきたいと思っている(特段何かしなくとも、そもそも社会で生きているだけで「政治」にコミットしているわけだけどね)。
そこで、例えば、何処の政党に投票するのか、とか、与党の政策が人々の生活や環境にどう影響するのか、あるいは何を壊そうとしているのか、など、これはきっちりと分別しなければ、いったいどうやって投票先を決めるのだろう。
また、人種差別や性差別、環境破壊等を是正するために社会を考えること、これも「判断」や「意見」という事柄にかかってくる。
ジャッジメントを「判断」や「意見」という1の意味で解する限り、これを放棄すると、もはや日常から大文字の「政治」まで、ちんぷんかんぷんなことにならないだろう いか。
ましてや、法学を研究する私など、日々このジャッジメントの繰り返しだ。
どういった法システムが人々の平等と自由のバランスを取り、社会的に虐げられている立場の人々の声を反映させられるのか。大きなテーマとしてこうしたことを日々こなす中、ジャッジメントをとったらそもそも研究なんてできない笑。
なので、ジャッジメントを手放す、ということができない、受け入れられない、ただ、この奥にある「何か」をつかめれば、つまり「真意」をつかめれば、すっきりするのではないかと考え続けていた。
その中で、人々が「ジャッジメントを手放す」という時の意味について、ぼんやりと輪郭が見えてきた。それはジャッジメント=偏見ということ。
他者への「色眼鏡」。自分への「色眼鏡」。社会への「色眼鏡」。
こうしたものをとっぱらいましょうよ。手放しましょうよ。そういう意味で使われているのではないかなと、漠然と思えてきた。
これならば、その通りだと思うし、こうしたものを暴露することがある種私の研究・ライフワークだったわけで、まだまだ自分への色眼鏡・偏見は残っているものの、大いに賛同したい。
ただ、やはりまだ疑問も残る‥‥果たして本当にそういう「意味」なのだろうか。
長くなったので、後編へ続けたいと思う♪