DANA2222のブログ

社会システムとスピリチュアリティ、主体、フェミニズム等等、思ったこと、感じた事、経験したことを徒然綴っています。

スピリチュアルな世界でいうところの「ジャッジメント(judgment)」について―後編

さてさて、前編では、ジャッジメントに感じる違和感と、これまでの私の生き方や価値観との整合性についてぐるぐる考え続け、ジャッジメント=「偏見」なのでないかというところへいきついたことを書いた。

 

その後、ジャッジメントの意味について、「これだっ!!」と思え、初めて腑に落ちたことを書きたいと思う。

 

ジャッジメントに関する違和感が常に頭の片隅に居座っていた頃、すっきりしたいとアクセスバーズを受けに行った(これについてもまたいつか書こうと思う)。

 

そこはアクセスバーズと和尚禅タロットリーディングを行ってくれるところで、施術者のJさんはいい意味でとてもさっぱり・さばさばした感じの方。

 

その方に、私がジャッジメントについて悩んでいることを、思い切って相談してみた 。

 

そこでのJさんの意見は次の通り。

 

ジャッジメントは、もともとは裁判などでの判決という意味。なので、最終判断を行うこと、つまり『決めつける』ということ

 

そうだ!!!それだーーー!!なんだか稲妻が走って、そして、猛烈に腑に落ちて、とんでもなくすっきりした笑。

 

つまり、ジャッジメントの意味としては、1というよりも2なのだ。

 

ジャッジメント=「判決」!!

物事の善悪の最終判断!!

つまり、最終の判断なので、それは「決定」であり、「覆せない」。「決めつけ」なのだ。

 

私たちは、日々生きている中、無意識の中で様々な「決めつけ」をしている。

 

それは、あの人は「良い人」とか、「悪い人」とか。

「私ってこんなもん」とか、「どうせうまくいかない」とか。

あるいは「子どもってこういうもん」とか「女ってこういう『性質』」とか、「女は○○すべき」とか、反対に「大人は○○であるべき」や「男は○○であるべき」等々。

 

こうした「決めつけ」は○○すべきといった「規範」になり、「モラル」になり、挙句の果てにはメンタルブロックとなり、人を縛り、自分も縛り、本来無限の可能性を秘めた自由な存在である私たち自身がその可能性を狭めてしまっている。

 

やっかいなのは、「決めつけ」による「規範」に縛られている人々自身が、それに気づいていないことが多いこと。

 

何かのきっかけで、そもそもこうした「規範」の存在意義がほとんどなく、自由にとってはむしろ有害だと気付ければいいけれど、この規範を社会がコモンセンスにしている場合が多いので、ほとんどの人がそれを疑うことすらなく生きている。

 

ジャッジメント=決めつけと解すれば、これこそどんどんみんなリリースしていけば楽になれると思うし、私もまだ無意識のジャッジメントを行っていることもあると思うので、これからも積極的にリリースしていきたい。