DANA2222のブログ

社会システムとスピリチュアリティ、主体、フェミニズム等等、思ったこと、感じた事、経験したことを徒然綴っています。

スターシード鑑定記事の削除について ―― 最近のモヤモヤの一つ

昨晩、以前に自分が書いたスターシード鑑定の記事についてもやもやしてきて、昨晩眠れずにいた。その時は何かわからなかったけど、記事を消すべきだと感じ、当該記事を削除した。

 

削除した記事の内容は概ね以下、

 

◇ETRプラクティショナーになるにはスターシードである必要があること

◇その根拠とされること

◇スターシードリーディングの紹介(但書付き)

◇自分の鑑定結果

 

何故もやもやするのか掘り下げていくと、どうもスターシードか否か鑑定する、ということ自体が、人との「違い」になんらかのネガティブな効果を持ちそうなフォーカスに繋がる可能性に行き当たった。

 

ラクティショナーになろうとする方であれば、リーディングを受けてもいいのかもしれないけれど、そもそもリーディングを受けなくても、何となくどこかに「自分はそうだろう」っていう想いが浮かぶのではないかな。

 

ただ、何らかのアイデンティティを獲得したいっていう、人のよく抱く願望があって、それに基づいてオーバーソールの所在や由来を知ろうとすることもあるかもしれない。

 

私の場合はトレーニングを受けようとしている身だから、ということもあったけど、だけど正直なところ、それ以外の要素もあったかもしれない。それはもしかすると自分が一番避けたかった、「自己顕示欲」とか、そういう類のものであったんじゃないかと思い出してる。さらに掘り下げると、それが根底的にある「承認欲求」からきているんじゃないかと、内省している。もやもやのもう一つが、これ。

 

承認欲求自体は、人であれば誰しもが欲求の何段階目で抱く感情なので、それ自体は悪いものでも何でもない。ただ、それが誰かと自分の「違い」を根拠にして、「人とは違う自分」を演出する構造ってよくあると思う。

 

まあそれも悪いことでもないのかもしれないけど、あまりにも承認欲求を原動力にしていることに無自覚だと、後々ひずみも生まれる。

 

またやばい方向に向かう例としては、何らかの社会的属性(性別とか国籍とか民族とか、今回であればスターシードだとか、あるいはヒーラーだとかライトワーカーだとか…あげたらきりないね)を基にして、自分が他の人とは「違う」ってことに価値を持たせることだと思う。

 

そしてやっかいなのは、本当は、根底に「孤独」とか、「人から見放される恐れ」とか、そういった感情があって、それが「いびつな承認欲求」に繋がっていてもなかなか本人は気づいていない場合が多い、ということ。

一見、社会の為、とか、愛に基づく、とかポジティブなスタンスをとっているようで、実は、結構利己的な原動力からきていることってのも、実際結構あると思う。

 

これは私も例外じゃない。

そして、これをクリアしてる人って、この社会では結構レアだとも思う。

 

 

何よりも自分がみたくないものは自分の内面(深層心理ともいうべきか)なのかもしれないね。

 

正直、ライトワーカーっていう呼び名も必要ないって思っている。

 

いわゆるライトワーカーだって誰だって、この社会で生きていたら、ある程度は社会の辛くなる規範(プログラミングって言われてるけど)の影響を受けてるし、自分だけ「完全にピュア」っていう自信は、逆に怖い。

自分に自信を持つことはとても大切、だけど、自分であっても「誤り得る」ってことも、常に頭の片隅に入れておく必要があるのではないかな。

 

ヒーローに期待したり、ヒーローになりたがったりする必要はない。

 

社会を変えるのはヒーローでもヒロインでもない、私たち一人一人だから。

むしろ、ヒーローを期待する、あるいはヒーローになりたがるモチベーション自体が、人間関係における上下関係を生み出す 要因だと思う。

 

 

だからこそ、内省、内観が必要なんだよね。

 

 

ついでいうと、私の数少ないスピリチュアルな情報源の一人、K.angelさんのことを、私はとても大切に思っているし、尊敬もしている。

ただ、そのK.angelさんの伝えてくれるメッセージについて、「共感できる」という点に加え、私は、「これは私と意見が違うな」という点も大切にしてる。

それは尊敬している人を妄信しないため。

それって、自分に対しての、その対象となる人に対しての、私なりの誠意なんだよね。

 

私は流されやすい部分があるって自覚してるから余計にね(笑)。

 

 

さてさて、

スターシードに関して、

本当に知りたい方は、自分でリーディングまで行きつくだろうし。

 

何より、やっぱり本来はそんなこと「どうでもいい」んじゃないかなって思う。

 

ただまあ、心境の変化って、一定プロセスを経るものであって。

そこでようやく体感して、腑に落ちて(←また使ってる)、納得する、ってものでもある。

 

私はこのプロセスもとっても重要だと思っていて、これはスピリチュアル系でよく言われる「怒りを解放しましょう」とかいうことへの慎重な態度にも関わってくる。また機会を改めて書きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

エナジー・トランスファー・リセット(ETR)を受けてみてー後編

さてさて、いつものように長くなったのですが、セッション中自分の身体から灰色の煙のようなものがビュンビュン抜けていくのが観えた後のことについて。

 

瞑想終了後、Sさんと感想をシェア。Sさん自身も、私の身体から灰色っぽい細い線がたくさん抜けていて、それが虹色に変わったまた身体に戻っていく様子を観ていたそうで。正直、私の観たものはまぼろしかなあとも思っていたので、同じものを観ていたことをきいて安心した。

 

その後、ETR後の過ごし方について教えてもらい、セッション終了。全部で40分くらいだったかな。

 

セッション後は、眠気、というよりも、ややハイな状態。それはこれから自分がどんな状態へと変化するんだろうというわくわくからきていたのかもしれない。

 

 ただ、不思議なことが起こったのはその晩だった。

 

すんなりと入眠できたのに、夜中の3時くらいだろうか、誰かに頬を指でむぎゅーーっと強く押されて、驚いて目が覚めた。あまりにもリアルな感覚だったので、娘の仕業だと思い、となりで寝ていた娘を見たが、ぐっすり寝ていた。

ただ怖いという感覚や、厭なぞわぞわも全くなかったので、これは誰か守ってくれている存在だなと感じた。

 

翌朝、娘が話してくれたこと。

「あのな、★★★(←娘の名前)、昨日の夜に目が覚めてな、ママのことみたら、ママの目がめっちゃ開いててな、そんで目ん玉全部まっ黒やってんで!ママっママっ!って起こそうとしたけどママ寝てた。ほんまにびっくりしてんから」

 

・・・・・・ 何それ。ちょっと怖い(笑)

 

これはSさんに報告せねばと思い、早速メールで連絡。

 

すると、古いエナジーが目から放出される際、まっ黒に見えることがあるとのこと。

 

これもリリースだったのかと思い、一安心。

そして、それを聞いてETRを行ってくれている高次元の仲間たちへの信頼がさらに強くなった。

 

それから約一か月、不安感は確実に軽くなっていたのだけれど、日常生活や通勤途中にアクシデントが度重なって起こる日が続いた。

 

私は電車や人混み、狭いところが極度に苦手だった。それなのに(何かの計らいか)、自宅から片道2時間半の大学へ非常勤講師の出講が決まって、ETRを申し込んだあたり、ちょうど通勤を始めていた。

授業自体はまったく苦ではなく、むしろ非常にやりがいを感じていたものの、どうしても通勤だけがネックで、処方されていた安定剤を通勤時には必ず服用していた。

それがとあるアクシデントで不安発作がでたのだ。

 

もう一年ぶりぐらいか。ETRを受けているのにおかしいと思いまたもやSさんに相談。

 

Sさん曰く、ハイヤーセルフの計らいらしく、私が苦手な状況になってももう大丈夫なんだということをアクシデントを起こすことで伝えているとのこと。

 

うーーーん、手厳しい…

と感じつつも、実際にアクシデントにあったにもかかわらず以前ほどは引きずらず、

気持ちの切り替えも早めにできたと思う。

 

そんなこんなで、時間がたっていったのだけれど、その後の変化について、改めて自分を振り返ってみた。

 

まず、以前はとにかくエネルギーからの「防御」ばかりを意識していた。

 

徹底的に「守りの姿勢」というような内向きの状態。

 

それが、何かをしてみたい、人と会って楽しいことをしたい、といった外向きの状態、能動的な姿勢に変化していった。実際、その間、それまでだったら敬遠していたような映画祭企画、人の多い施設等に出向いたし、そこそこ楽しんだと思う。

 

2017年以降、一つのことを行うのに、楽しいが80%あっても、不快が20%あると、その時間全てが「不快」に印象付けられる感じだった。

 

それが、例え同じパーセンテージでも、不快ではなく、その中で楽しかったことや、味わえた充実感が印象付けられている感覚。

 

物事の見方、捉え方というのは、こうして、「違い」を作り出すのだなと実感する。

 

ETR自体のプロセスには、個人差があると思う。その人その人でリリースするテーマも異なるであろうし、レジリエンスのペースも異なるだろう。

 

あくまでも私の場合だが、まずは、感情的な重たい荷物や自分はこうした状況ではこうなるに違いない、という今までの歪んだ信念が薄まっていったと思う。

 

私もそんなにたくさんセッションを受けたことがある人間ではないけれど、このセッションには驚かされる。

 

 

 

 

 

 

エナジー・トランスファー・リセット(ETR)を受けてみて―前編

ETRセッションの二回目の記事を先に書いているのだけれど、実はわかりやすい変化、なかなか摩訶不思議な出来事は、一回目の後に起きていた。

 

私がETRを受けたのは、大阪からはやや離れた地域でプラクティショナーをされているSさん。今月実際に京都の三十三間堂でお会いするまでは、Zoomを使った遠隔でのやり取りを続けていた。

 

ETRセッションを施してくれる人を探していた頃、偶然SさんのHPを見つけて、そこから感じるエネルギーが心地よい感覚があり、加えて、内容にも何か相性のいいフィーリングを感じ取ったため、受けるならこの人!と決めた。

 

ETRの予約をしてセッション当日まであと一週間という頃、大きな感情の起伏が続いていた。普段ならあまりない激しい怒り、過去の嫌な出来事の数々が波のように湧き上がってきた。

かと思えば、いつもの学内の並木道を歩いていると突然、木々、草花、昆虫、行きかう見知らぬ人全てへ感謝の気持ちが溢れ出て、顕在意識とは無関係に愛が溢れ、感動のような涙が溢れた。きっとあの時私とすれ違った人たちは、一人でにやけながら泣いている私を「変な人」と思ったことだろう笑。まあ実際に「変な人」なので構わないんだけど。

 

これらは感情の浄化だと感じていたので、さほどあたふたせず、当日セッションを行ってもらう予定だった子ども部屋をせっせと片づけたり、クリアリングのワークを行ったりしていた。

そんな中、セッションの前々日だったか、子どもが部屋に入ると「ママ 変な感じする。人がいっぱいいるみたい!もわっとしててなんか入りたくない」と訴えてきた。私も空気がなんだか変わっていることは感じていたが、Sさん曰く高次元の存在達が部屋のエネルギーを数日前から整えるために動いているらしく。そらもわっとするな笑。

 

 さて、そんなこんなでいよいよ本番当日。Sさんの誘導で部屋に横たわり瞑想に入ろうとすると、なんだか本当に満員電車のようで、エネルギーの密度が濃い。数十人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている感覚。息苦しさを感じた。

同時に、何とも言えない不安感が襲ってきた(ちなみに私は今のところ閉所や逃げられない環境がとても怖い。だいぶ、薄れてきたものの、やはりまだ残っている)。どうしよう、やだな~と、ここにきて逃げ腰になってしまった笑。が、そこから数十秒後、この感情がとたんに無くなった。そして、身体がどんどん膨張して、周囲との境目がなくなる感覚に包まれ、私の身体からグレイの煙のようなものがどんどん抜けていくのが視えた。たとえるなら、ハリーポッターのディメンターが人の姿から煙のような姿へ変身するような光景。余計わかりにくいかな(笑)。

 

またまた長くなったので、後編に続けたい。

 

 

スピリチュアルな世界でいうところの「ジャッジメント(judgment)」について―後編

さてさて、前編では、ジャッジメントに感じる違和感と、これまでの私の生き方や価値観との整合性についてぐるぐる考え続け、ジャッジメント=「偏見」なのでないかというところへいきついたことを書いた。

 

その後、ジャッジメントの意味について、「これだっ!!」と思え、初めて腑に落ちたことを書きたいと思う。

 

ジャッジメントに関する違和感が常に頭の片隅に居座っていた頃、すっきりしたいとアクセスバーズを受けに行った(これについてもまたいつか書こうと思う)。

 

そこはアクセスバーズと和尚禅タロットリーディングを行ってくれるところで、施術者のJさんはいい意味でとてもさっぱり・さばさばした感じの方。

 

その方に、私がジャッジメントについて悩んでいることを、思い切って相談してみた 。

 

そこでのJさんの意見は次の通り。

 

ジャッジメントは、もともとは裁判などでの判決という意味。なので、最終判断を行うこと、つまり『決めつける』ということ

 

そうだ!!!それだーーー!!なんだか稲妻が走って、そして、猛烈に腑に落ちて、とんでもなくすっきりした笑。

 

つまり、ジャッジメントの意味としては、1というよりも2なのだ。

 

ジャッジメント=「判決」!!

物事の善悪の最終判断!!

つまり、最終の判断なので、それは「決定」であり、「覆せない」。「決めつけ」なのだ。

 

私たちは、日々生きている中、無意識の中で様々な「決めつけ」をしている。

 

それは、あの人は「良い人」とか、「悪い人」とか。

「私ってこんなもん」とか、「どうせうまくいかない」とか。

あるいは「子どもってこういうもん」とか「女ってこういう『性質』」とか、「女は○○すべき」とか、反対に「大人は○○であるべき」や「男は○○であるべき」等々。

 

こうした「決めつけ」は○○すべきといった「規範」になり、「モラル」になり、挙句の果てにはメンタルブロックとなり、人を縛り、自分も縛り、本来無限の可能性を秘めた自由な存在である私たち自身がその可能性を狭めてしまっている。

 

やっかいなのは、「決めつけ」による「規範」に縛られている人々自身が、それに気づいていないことが多いこと。

 

何かのきっかけで、そもそもこうした「規範」の存在意義がほとんどなく、自由にとってはむしろ有害だと気付ければいいけれど、この規範を社会がコモンセンスにしている場合が多いので、ほとんどの人がそれを疑うことすらなく生きている。

 

ジャッジメント=決めつけと解すれば、これこそどんどんみんなリリースしていけば楽になれると思うし、私もまだ無意識のジャッジメントを行っていることもあると思うので、これからも積極的にリリースしていきたい。

 

 

スピリチュアルな世界でいうところの「ジャッジメント(judgment)」について思うこと(前編)

必要に駆られて、ほぼ仕方なく(半ば強制的に)スピリチュアルの世界、目に見えないエネルギーの世界に入っていったわけだけど、そこで出会った「価値観」の中でずーーーーーっと引っかかっていた、そして約2年間その意味を考え続けていた言葉、それが「ジャッジメント」。

 

この世界を生きやすくするための思考・マインドの在り方について、ジャッジメントを手放す、とか、ジャッジメントをしない、とかいうアドバイスを本当によく聞いた。

 

だけど、肝心のジャッジメントがどういう意味なのか、本当にわからなくて困惑し続けていた。

 

ちなみに、ジャッジメントの日本語としては次のような意味がある。

 

1.判断・判断力・意見・分別

2.判決・審判・裁判

 

このジャッジメントの意味を、1のように、ただ単に「判断」や「意見」と解すると、これまたやっかいなことに社会生活が送れなくなる。

何故なら、当該ながら私たちは日々、食べるもの、着るもの、生活するところ、会う人を選ぶために「判断」しているから。

「選ぶ」という行為の前提には、何かしらの判断基準をもって「判断」する行為が存在している。これがなければ、私たちは「今日の献立なににしよう」とか、「今日はどんな服をきていこうか」とか「判断」せず、ただ本能のままに(笑)過ごしていくことになる。もちろん、そういう中には本当にそういう生活をしている人もいるのかもしれないけど、少なくともこの現代の文明社会では見つける方が難しいだろう。

 

加えて、社会をよくしていくためには、政治について考えることは欠かせない。

スピリチュアリティを追求する人の中には政治を忌避する方が一定数いるのだけれど、私自身は、政治と日常が密接に繋がっており、思考・マインド・集合意識が良くも悪くも相互連関している、そうした社会システムがあると考えているので、政治についてもしっかりとできる範囲でコミットしていきたいと思っている(特段何かしなくとも、そもそも社会で生きているだけで「政治」にコミットしているわけだけどね)。

 

そこで、例えば、何処の政党に投票するのか、とか、与党の政策が人々の生活や環境にどう影響するのか、あるいは何を壊そうとしているのか、など、これはきっちりと分別しなければ、いったいどうやって投票先を決めるのだろう。

 

また、人種差別や性差別、環境破壊等を是正するために社会を考えること、これも「判断」や「意見」という事柄にかかってくる。

 

ジャッジメントを「判断」や「意見」という1の意味で解する限り、これを放棄すると、もはや日常から大文字の「政治」まで、ちんぷんかんぷんなことにならないだろう いか。

 

ましてや、法学を研究する私など、日々このジャッジメントの繰り返しだ。

どういった法システムが人々の平等と自由のバランスを取り、社会的に虐げられている立場の人々の声を反映させられるのか。大きなテーマとしてこうしたことを日々こなす中、ジャッジメントをとったらそもそも研究なんてできない笑。

 

なので、ジャッジメントを手放す、ということができない、受け入れられない、ただ、この奥にある「何か」をつかめれば、つまり「真意」をつかめれば、すっきりするのではないかと考え続けていた。

 

その中で、人々が「ジャッジメントを手放す」という時の意味について、ぼんやりと輪郭が見えてきた。それはジャッジメント=偏見ということ。

 

他者への「色眼鏡」。自分への「色眼鏡」。社会への「色眼鏡」。

 

こうしたものをとっぱらいましょうよ。手放しましょうよ。そういう意味で使われているのではないかなと、漠然と思えてきた。

 

これならば、その通りだと思うし、こうしたものを暴露することがある種私の研究・ライフワークだったわけで、まだまだ自分への色眼鏡・偏見は残っているものの、大いに賛同したい。

 

ただ、やはりまだ疑問も残る‥‥果たして本当にそういう「意味」なのだろうか。

 

長くなったので、後編へ続けたいと思う♪

 

2回目のエナジー・トランスファー・リセット(ETR)をうけた日の夢

2回目のエナジートランスファー・リセットを受けた日、とても不思議な夢を見た。

 

忘れないようにメモしていたことを無性にブログに書きたくなった。

 

まず初めに見た夢、大きな黒い龍が足の下(恐らく地面の下)からグレイ(?)の炎をものすごい勢いで吹き、その炎がまるで台風のように体中・体の周りのものを巻き上げ、同時に子宮から何か大量の要らないものが出てきた。これがどんな意味なのかわからないが、びっくりして目を覚まし、思わず下着を脱いで何も出ていないか確かめた笑。

 

そこで、やはり夢だとわかり、もう一度ねむると、今度はセッションをしてくれたSさんと私で、大きな湖、或いは池の双方向に立ち、その中で闘う二体のもの(恐らく龍)に対して、両手からエネルギーを送っている夢を見た。

 

これもあまりにもリアルで、臨場感がすごく、目を覚ましてしまった。

 

さすがに夢だとわかっていたので、忘れないようにメモをして眠りについた。

 

こうした夢は次の日以降みなかったものの、とてもリアルな夢、示唆的な夢を度々みた。

中には前世かもしれないと思われる不思議な夢もあった。

 

ETRを受けたことで夢を意識するようになったこともあるのかもしれないが、ETR後の夢、というのもまたメッセ―ジとしては参考になるのかもしれない。

エナジー・トランスファー・リセット(ETR)を受けて 

ブログを放置し続け、気づけば約1年!!(汗)

 

このブログは私自身が頭を整理したり、体調・メンタルのメンテに役立ったことをメモ的に記していく目的で始めた。はずが、なにせ三日坊主・・・ 私らしいと言えば私らしいが。

 

エナジートランスファー・リセット(ETR)というヒーリング・モダリティを初めて聞いたのは、米国在住のクリスタルショップ運営しているK.angelさんのyoutube動画の中でだった。確か11か月くらい前だったと思う。このヒーリングをきいたとき、直感的に「受けたい!」と感じた。念願かなって第一回目ETRを受けたのが今年(2019年)の5月。その時のことはまた気が向いたら詳しく書きたいと思う。

 

さて、本日、二回目のETRを受けた。

今回のETRは、3日前から肉体、特に足、子宮、胃腸、頭の浄化を感じていたので、ボディーの方のリリースが起きるだろうと感じていた。

 

瞑想中は強いエネルギーを感じたものの、前回のように眩暈がするほどの強烈なエネルギーに圧倒されるということはなかった。

 

今回私が感じたのはまず、足のひざ下への熱いエネルギーだった。瞑想が始まってすぐ、足先がポカポカしてきた。

その後もどんどん足は暖かくなっていき、ひざ上の筋肉がビクンと反射のような動きをした。だいたい強いエネルギーを受ける時はこうした筋肉の反応があるのが不思議。

 

同時に、断片的なイメージが浮かび、深い瞑想に入りかけるとまぶしい光が目の前に現れた。その後筋肉の反応が腕に移った。最後に下腹部からも何かが出ていく感覚があり瞑想は終了。

 

瞑想後、ヒーラーのSさんと感想を交換しあった。

 

Sさんが受け取ったのは、私が過去世で人間以外の存在(エレメンタル?と表現されていた)だったころ、林の中を楽しそうに駆け回っている時に、木の根に引っかかって転倒し、ひざを負傷し、その膝をかばううちに足首に負担がかかっている映像・状況だったそうで。

 

今回のETRでのヒーリングもひざ下に集中していたそう。私の感覚でも、まず「足」だったのでやはりそうかと答え合わせをした感じだった。

 

 

そして驚いたのが、ここ約1週間(10日間程かな?)、私はひざ下にずっと違和感を感じ続けていたこと。

きっかけは、苦手な歯医者の外科処置を次の日に控えていた時。おそらく不安の為だと思うがグラウンディングが全くと言ってできず、特に足首周りがふにゃふにゃするようで気持ちが悪かった。

これも外科処置が終われば治るだろうと思っていたが、いざオペを終えてもまだ収まらず、それどころか気持ち悪さは悪化して、布団に転がって足をばたばたしていた。

なんだかこれは異常事態だ、嫌な予感がして、塩風呂はいったり、オーラソーマを足首周りにぬったり試行錯誤していた。

 

それから数日後、ペンデュラムの講座に行った際、その空間が本当に心地よく、足の違和感も外れていた。講師のMさんがペンデュラムで調べてくれたところ、足首に重たいエネルギーが付着していて、その部屋にきて1時間後に離れていったとのこと(驚)。

 やはり憑いてたなと納得。

 

実はその違和感のあった数日間、通っている鍼灸院の主治医に施術をしてもらった直後、両ひざの裏がエネルギーに反応していた。膝へと気が流れていく感じだったのだ。主治医曰く、ひざにエネルギーのブロックがあったとのこと、そのため気が足先まで流れず、ひざ上で循環するため気逆に繋がっていた。

 

そう、やはりこの約一週間のキーワードは膝下だったのだ!

 

もちろん、これらのことをSさんは一切知らない。なので感想を共有し終わった後に二人とも(恐らく)驚いたのだった。

 

また、Sさんが受け取ったメッセージをシェアしてくれたのだが、それが「大きな関節と同時に小さな関節も大切にしましょう」「魂が軽なっていく」というものだった。

ありがたいし、このことを忘れず意識して生活したい。いや、する(笑)。 

 

また今回、強く感じた事は、「自分の人生を自分で切り開く覚悟」だった。

 

魂の契約を解除し、一定程度決められてきた今世の予定を白紙に戻すということ。

 

それはまさしく自分の人生を自分で切り開ける「自由」を獲得するということだ。

 

だが同時に、その「自由」には自分のこれからの人生の責任を引き受けるということが伴う。

 

ただそれはネオリベ的な自己責任論とは違う。

 

人生に対する自由と責任はコインの裏と表の関係なのだ。

その自由を行使する過程で、人に頼ることもあるだろう。環境的要因に適切に責任を見出すこともあるだろう。それは何もかも自分で背負うということとは違う。困ったとき、自分の手には負えない状況が生じた時はヘルプを出すし、パワーが足りない時はパワーのある人やモノにも頼る。そうしたプロセス全てを含めた「自由」なのだ。そしてプロセス全ての、その最終的な責任を負うのも自分。

 

そこにはわくわくもあれば、不安もある。

だからこそ、自分を信頼するということがこれからとても重要になってくる。

自分で自分の人生を切り開いていく力が私にはある、きっとあるのだろう。

 

覚悟が大切だと、そう強く感じた。

 

その為にはやはり地に足をつけなくてはならないし、グラウンディングを強く意識していかなくてはならない。

 

ちなみに、私は多くの人が「波動を上げる」ことや「アセンション」に熱心になっている中、そこにはあまり魅力を感じていなかった。

 

正直チャネリングにも興味はあるし、つらい時にアドバイスが欲しいのも事実。
アセンションに興味があるのも事実。でもそれは、アセンションエナジーを理解し、自分のメンタルや身体と付き合うためにに必要な一要素である、ということに留まる。
高次元に行きたい、とか、アセンション後の地球で平和に暮らしたい、とかいう願望は、今の所ない。

 

波動の高い低いで人や自分を価値づける感覚(もちろん、そうした価値付けをしない方もたくさんいらっしゃる)も苦手だったし、例え低い波動であってもそこから何かを学び、しなやかに生きることに、この三次元で生きる醍醐味を感じていたから。

 

なので、もっぱら私の一年間の望みは地球としっかり繋がることだった。

 

 

 

大事なのはこの三次元の地球を豊かにしていくこと、「今ここ」そしてそこから紡がれる「先の未来」をよりよくしていくことだと思う。これもずっと変わらない。

 

その為にも、この地球と仲良く、ハグをするように繋がる感覚を強く望んでいた。これからも変わらないと思う。

 

そしてそれは、他のエネルギーの干渉(アセンションも含め)に、大きくは振り回されない自分を作っていきたい、という願望に基づいていたのだ。

 

要するに、自分の足で、この地球をしっかりと生き抜く、ということ。

 

望みと覚悟がリンクした。

 

これからが楽しみだ。

 

リリースを手伝ってくれた存在達、Sさん、いつも本当にありがとう。