スターシード鑑定記事の削除について ―― 最近のモヤモヤの一つ
昨晩、以前に自分が書いたスターシード鑑定の記事についてもやもやしてきて、昨晩眠れずにいた。その時は何かわからなかったけど、記事を消すべきだと感じ、当該記事を削除した。
削除した記事の内容は概ね以下、
◇ETRプラクティショナーになるにはスターシードである必要があること
◇その根拠とされること
◇スターシードリーディングの紹介(但書付き)
◇自分の鑑定結果
何故もやもやするのか掘り下げていくと、どうもスターシードか否か鑑定する、ということ自体が、人との「違い」になんらかのネガティブな効果を持ちそうなフォーカスに繋がる可能性に行き当たった。
プラクティショナーになろうとする方であれば、リーディングを受けてもいいのかもしれないけれど、そもそもリーディングを受けなくても、何となくどこかに「自分はそうだろう」っていう想いが浮かぶのではないかな。
ただ、何らかのアイデンティティを獲得したいっていう、人のよく抱く願望があって、それに基づいてオーバーソールの所在や由来を知ろうとすることもあるかもしれない。
私の場合はトレーニングを受けようとしている身だから、ということもあったけど、だけど正直なところ、それ以外の要素もあったかもしれない。それはもしかすると自分が一番避けたかった、「自己顕示欲」とか、そういう類のものであったんじゃないかと思い出してる。さらに掘り下げると、それが根底的にある「承認欲求」からきているんじゃないかと、内省している。もやもやのもう一つが、これ。
承認欲求自体は、人であれば誰しもが欲求の何段階目で抱く感情なので、それ自体は悪いものでも何でもない。ただ、それが誰かと自分の「違い」を根拠にして、「人とは違う自分」を演出する構造ってよくあると思う。
まあそれも悪いことでもないのかもしれないけど、あまりにも承認欲求を原動力にしていることに無自覚だと、後々ひずみも生まれる。
またやばい方向に向かう例としては、何らかの社会的属性(性別とか国籍とか民族とか、今回であればスターシードだとか、あるいはヒーラーだとかライトワーカーだとか…あげたらきりないね)を基にして、自分が他の人とは「違う」ってことに価値を持たせることだと思う。
そしてやっかいなのは、本当は、根底に「孤独」とか、「人から見放される恐れ」とか、そういった感情があって、それが「いびつな承認欲求」に繋がっていてもなかなか本人は気づいていない場合が多い、ということ。
一見、社会の為、とか、愛に基づく、とかポジティブなスタンスをとっているようで、実は、結構利己的な原動力からきていることってのも、実際結構あると思う。
これは私も例外じゃない。
そして、これをクリアしてる人って、この社会では結構レアだとも思う。
何よりも自分がみたくないものは自分の内面(深層心理ともいうべきか)なのかもしれないね。
正直、ライトワーカーっていう呼び名も必要ないって思っている。
いわゆるライトワーカーだって誰だって、この社会で生きていたら、ある程度は社会の辛くなる規範(プログラミングって言われてるけど)の影響を受けてるし、自分だけ「完全にピュア」っていう自信は、逆に怖い。
自分に自信を持つことはとても大切、だけど、自分であっても「誤り得る」ってことも、常に頭の片隅に入れておく必要があるのではないかな。
ヒーローに期待したり、ヒーローになりたがったりする必要はない。
社会を変えるのはヒーローでもヒロインでもない、私たち一人一人だから。
むしろ、ヒーローを期待する、あるいはヒーローになりたがるモチベーション自体が、人間関係における上下関係を生み出す 要因だと思う。
だからこそ、内省、内観が必要なんだよね。
ついでいうと、私の数少ないスピリチュアルな情報源の一人、K.angelさんのことを、私はとても大切に思っているし、尊敬もしている。
ただ、そのK.angelさんの伝えてくれるメッセージについて、「共感できる」という点に加え、私は、「これは私と意見が違うな」という点も大切にしてる。
それは尊敬している人を妄信しないため。
それって、自分に対しての、その対象となる人に対しての、私なりの誠意なんだよね。
私は流されやすい部分があるって自覚してるから余計にね(笑)。
さてさて、
スターシードに関して、
本当に知りたい方は、自分でリーディングまで行きつくだろうし。
何より、やっぱり本来はそんなこと「どうでもいい」んじゃないかなって思う。
ただまあ、心境の変化って、一定プロセスを経るものであって。
そこでようやく体感して、腑に落ちて(←また使ってる)、納得する、ってものでもある。
私はこのプロセスもとっても重要だと思っていて、これはスピリチュアル系でよく言われる「怒りを解放しましょう」とかいうことへの慎重な態度にも関わってくる。また機会を改めて書きたいと思う。