DANA2222のブログ

社会システムとスピリチュアリティ、主体、フェミニズム等等、思ったこと、感じた事、経験したことを徒然綴っています。

スピリチュアルとの距離 ― 引き寄せの法則(波長の法則)への疑問と信念に沿うこと

新月の影響か、昨日から自分自身が分裂しているような感覚にさいなまれた。

 

これまでインプットしすぎてきた情報に振り回されて、脳内がキャパオーバーになっていたところ、自分の軸がぐらぐら揺れていた。

悩んでぐるぐると考え、時にランニングや音楽で気持ちを晴らし、またぐるぐる悩んだ。

結果、やはり悩んでよかった。

 

これまでインプットしてきた情報が私には「合わない」ものだとはっきりと認識できたからだ。

 

これに気づいて、すっと何かが抜けていく気がした。それまでの鬱屈した気持ちはどこへやら。今はモチベーションに動かされ、晴れやかだ。

 

この約二年間、情報源は少ないなりに、しかしながら密度の濃いスピリチュアル界隈からのインプットに翻弄されていたのだと思う。そしてその中の「価値観」であったり、人生への姿勢について、これまでの自分の学びや信念とはどこか方向性の違うものであるとの違和感(モヤモヤ)をずっと抱えたままにしてきた。

 

いくつかのスピリチュアル界隈の「考え方」について、一番疑問に思うのは(今は心の中で疑問ではなく私の信念との「違い」としてはっきりしている)、スピリチュアルの「幸せ」へのアプローチが、極端に個人主義的であることだ。

特に、ワンネスを謳いながらも、その自分へのアプローチのみである点、即ち自分の生きる社会自体へのアプローチが欠如している点である。

 

もっとも、全てのスピリチュアリストが自己探求や自己との対話のみを推奨しているわけではないとは思うし、実際にキリスト教等の宗教を初め、社会の差別や戦争を非難し、具体的に啓発活動等を行う等アプローチをする団体も多い。

 

だが、生きづらさに悩む人に対して、その背景にある社会の構造的な問題をスルーしたまま、自分を「変えること」を処方箋として提供する昨今のスピリチュアル界隈には、やはり距離感を感じる。

 

何故か。

 

もちろん、「自分を変える」アプローチの有効性はわかる。そして、自分の物事の捉え方が変化した結果、社会を見る余裕が生まれ、外側へのアプローチへと取り組むようになると言ったプロセスも十分に理解できる。かくいう私もこの約二年間の停滞期、自分へのアプローチに救われた一人だから。また、正直社会を変えるよりもまずは「自分」を「変える」方が早いという気持ちもわかる。これはある意味社会変革への諦念なのだが、自分がパワー不足の時にはある程度仕方のないことなのだとも思う。

 

ただ、この自分アプローチの問題の際たるものとして指摘したいものがある。

 

引き寄せの法則」、乃至「波長の法則」である。

 

自分を取り巻く環境が厳しいことを、自分が引き寄せた結果だとすること、その暴力性を強く感じるのである。

 

確かに、自分自身が変われば、周りの環境も変わる。わかりやすい例でいうと、経済的に豊かな生活をする人であれば、付き合う人の経済的ステータスはそれ相応に見合ったものだろう。また、常にイライラしている人であれば、イライラに同調する人々が周囲に集まるだろう。

恐らく、これは特段スピリチュアル的に説明する必要がない程自明な原理として(社会学的にも説明がつくだろう)存在している事柄だ。

 

 

問題は、辛い状況にあって自分に自信を持てない人々に対して、「それはあなたが引き寄せた事だから、自分が変われば周りも変わりますよ」ということが、その人にとって一体どのように作用するのか、その暴力性に無自覚なところにあると思うのだ。

 

どういうことか。

 

例えば、在日朝鮮人の人がここ10数年間のヘイトスピーチ嫌韓ブームにひどくディスパワーされている状況がある。

 

在日朝鮮人の人々のこのディスパワーに対し、「それはあなたが引き寄せた状況だよ」と言えるのだろうか。

 

統計データは出さないが(ググれば出てきます)、先のヘイトスピーチ嫌韓ブームにより在日朝鮮人の人々のメンタルの悪化は、日本社会の問題であるし、その個人の問題なのではない。

 

他にも、LGBTの当事者の生きづらさは、当事者の自殺率が、ストレートでヘテロセクシュアリティの自殺率を大きく上回ることからも、構造的問題であることは自明である。

 

彼らが「生きづらい」、「苦しい」と訴える時、求められるのは、それを個人の問題とすることではないだろう。当事者は、その問題の個人化によってさらに追い詰められるだろう。

 

 

彼らの訴えに対し、必要なのは、「その苦しみはあなたのせいではない、社会の側の問題だ」と伝えることではないか。

 実際にこの文脈で問題を個人化して伝えるスピリチュアリストがどれだけいるのか定かではないが、少なくとも違う文脈である種独り歩きしているとも感じられる「引き寄せの法則」や「波長の法則」は当回りで当事者へダメージを与えることは容易に想像がつく。

 

ありのままで生きていていいのだと思わせない社会、差異を否定的に価値づけする社会にあって、そのプレッシャーを抜きにして問題を語ることが当事者をさらに追い詰めることは、もう少し共有されていてもいいはずだ。

 

これはセクシュアリティや民族性という属性に限った話ではない。

 

例えば、経済的格差が拡大し、同時に非正規雇用も拡大する中、雇用は椅子取りゲームである。そもそも正規職員とういう経済的に安定する身分のパイ自体があらかじめ定まっている中、誰かがその椅子を取れば、必ずあぶれる人が出てくる。

 

これは個人の努力や気の持ちようの問題ではない。構造的な問題だ。

 

雇用が不安定化すると、経済不安は必然的に高まる。

 

実は引き寄せの法則が本家のアメリカで一大ブームとなった時期も、新自由主義経済によって安定雇用が崩壊し、中流層が没落した頃なのである。

 

もちろん、引き寄せの法則で豊かさを引き寄せられた人もいるだろう。

しかしその成功の裏で、誰かが椅子から転び落ちている。

 

決して罪悪感を植え付けたいのではない。

 

経済的不安の原因に構造的背景が存在していることを伝えたいのだ。

 

それぞれが、自分にできる範囲でそれぞれの問題に取り組むことは素晴らしいと思う。

 

それぞれが、それぞれに適したアプローチで問題に取り組むことも然り、

 

そのこと自体は否定しない。

 

 しかし、スピリチュアルブームの下、社会的問題がどんどん個人化され、挙句それを正当化するように、「それはあなたが引き寄せたのだ」とする言明が蔓延していくことは、本当に恐ろしいと思う。

 

そのドグマで、誰かをさらに追い詰めることは、やはり避けなければならないと思うのだ。

 

 ここまで書いておいて、実は私自身このドグマに振り回されていた。

 

スピリチュアルな情報に振り回されていたといっていいと思う。

 

しかしどこか違和感がずっとこびりついていた。

 

この違和感を無視せず、ずっとぐるぐる考え続けた結果、私は自分の学びと信念の原点に戻ってきた。

 

戻ってこれた。

 

だからこれだけすがすがしいのだろう。

 

最後に書きたいことは、「おかしいことはおかしいと言っていい」ということ。

 

変に強い自分を演じる必要もないし、社会の責任を問わず自分の責任とすることで自分をごまかす必要もない。

 

ついでいうと、もっと怒っていい。

 

おかしいことはおかしいのだから。

 

理不尽は理不尽なのだから。

 

不公正は不公正なのだから。

 

自分の中に責任を見出す瞬間も、あるだろう。

 

怒りが実は自分自身の劣等感やコンプレックスから来ることに気づく瞬間もあるだろう。

 

実は目のまえの人が自分の写し鏡であることに気づく瞬間もあるだろう。

 

しかし、そのことと構造的問題による社会の責任を不問に付すこととは違う。

 

それぞれが「自分を変革」して果ては社会を改善するアプローチと同様に、

 

社会の側がそれぞれ「違い」を持った個人が生きやすくするために制度変革していくアプローチも欠かせない。

 

私は、だれかが苦しみを打ち明けた時、ともに社会の理不尽に立ち向かう側で居続けたいと思う。

 

ずっとそう思ってきたことに正直になれた。

 

また「自分」に戻ってこれた。

 

 

そんな新月だった。